fiction
社会
1章
Rには、アトムとウランという二人の子供がいた。二人は夏休みに入ってから、毎日のように連れだって遊んでいた。その少し前、Rは兄のアトムの誕生日に釣竿をプレゼントした。そして、次の週末にみんなで釣りに行こうと提案した。
アトムとウランは釣りに出かけるのが待ち遠しく、あと三日、あと二日と、玄関にミニ・カレンダーを作る始末だった。待ちに待った週末、二人はRと一緒に、近くの公園にある湖へ魚釣りに出かけた。
しばらく釣り糸を垂らしていたが、まったく魚は釣れなかった。はじめのうち、二人はわくわくしながら、無言で釣り糸の先を眺めていた。けれど時間がたつにつれて痺れを切らし、やがて家から持ってきたお菓子を食べながら、おしゃべりに夢中になっていた。Rといえば、そんな二人をやさしく見守っていた。
魚がなかなか釣れないので、Rは二人に聞いた。
「アトム、ウラン。魚の気持ちって考えたことはある?」
魚を釣るためには、まず魚の気持ちを考えてみるといいんじゃないかな、と。
二人はしばらく、楽しそうに空想していた。やがてウランは、湖岸に立つ大きなフェニックスの木へぼんやりと視線を泳がせながら言った。
「こういうのはどうかしら」
そして、次のような物語を語った。
2章
魚のジョンは恋に落ちた。
ジョンには、もう一年になる恋人がいた。名前はエレナという。
ジョンはエレナに不満があるわけではなかった。このままつがいになり、子孫を残し、ともに生涯を全うする。それは十分に幸せなことだと思っていた。群れの中で平穏無事に暮らすこと。それがジョンの考える幸福だった。
若い仲間たちに比べれば、多少は安定志向だったかもしれない。けれど、取り立てて変わった考えでもない。仲間たちも歳を重ねれば、いずれ同じように考えるだろう。
そんな幸福をエレナと築いていくのだと、ジョンは信じていた。
恋に落ちる、その瞬間までは。
それは、夏の盛りの日だった。ジョンの群れは、普段とは違うところで泳いでいた。その時期はちょうど、湖岸の大きなフェニックスの木が太陽の光をうまく遮り、そこは避暑を求める魚たちにとって流行のスポットとなっていた。
午前の間、魚たちは涼みながらそこで泳ぎを楽しんでいた。
昼過ぎ。遠くのほうで、耳慣れない音がした。
ジョンとその若い仲間たちは気にも留めなかった。にわかに、高齢の魚から順に、自分たちの普段の場所へ戻っていった。ジョンはそれに気づいてはいたものの、単に年寄りの気まぐれだろうと思っていた。
耳慣れない音が強くなってくる。
その音が止んでしばらくしたあと、空から鮮やかな銀色のものが降ってきた。
その場にいた魚たちは驚き、遠巻きに円を作ってそれを観察していた。
なんて美しいものが、この世にはあるのだろう。
ジョンはそう思った。
すぐにでも飛びつきたい。飛びついて体にこすりつけたあと、口に含み、舐め回したい。
しかし、仲間たちが見ている前で、自分だけがその魅惑的な銀色のものに飛びつくのは躊躇われた。ジョンはいつも、そうやって群れの中でうまくやってきた。
銀色のものが落ちたときにできた波紋が収まっていくのと同じように、魚たちの間にも緊張感のある静寂が訪れた。
その瞬間、一匹のお調子者の若い魚が、光を放つそれに飛びついた。
しまった、出遅れた。
ジョンはそう思った。
そうなってしまえば、お調子者と銀の優美なダンスを見届けるしかないのだろう。
ところが、お調子者の魚は銀に引っ張られ、水面へ近づいたかと思えば、そのまま水の中から消えていった。
一瞬の出来事で、ジョンには何が起こったのかさっぱりわからなかった。やがてジョンは周りの魚に促され、普段の場所へと戻っていった。
普段の場所に戻ってからも、ジョンの脳裏には銀色の妖艶な姿が焼きついていた。そしてもう一つ、忘れられないものがあった。
あれを口にした瞬間のお調子者の、恍惚とした顔だった。
彼はその顔のまま、ジョンたちの知らない湖の外へ消えていった。
その日から、ジョンはその体験が頭から離れなかった。そしてある日、自分があの銀色のものに恋をしていることに気づいた。
それからジョンは、群れの中で時間を見つけては、あのフェニックスの木の下へ向かうようになった。仲間には、涼しいところに行きたいんだ、と伝えていた。
そんなジョンの変化に、エレナはすぐに気づいた。
エレナは年老いた魚たちから、お調子者の魚は釣られていったのだ、そして死んだのだと聞かされていた。
「どうしてジョンや他の魚を一緒に逃がさなかったの?」
エレナが聞くと、年老いた魚は答えた。
「そんな余裕はなかったさ」
「でも……」
「自分が助かろうってときに、他人のことまで考えるものかね」
エレナもそんなものかもしれないと思い、黙るしかなかった。
ジョンもまた、お調子者は釣られて死んだのだ、もうあの辺りには近寄らないほうがよいだろう、と聞いていたはずだった。しかし、その程度の話でジョンの鋭い欲望が霞むことはなかった。
エレナも、自分が群れから外れてまでジョンを監視するのはおかしいと感じ、その行動を黙認していた。
ジョンがフェニックスの木の下で釣られたのは、恋に落ちてからそう日がたっていないころだった。
日課のようにフェニックスの木の下へ来ていたジョンは、あの銀色のものが水面から飛び込んでくるのを見つけた。
今度は、ジョンは銀色のものへ一直線に泳いでいった。
自分にできる最大限の愛を示すように、ジョンは銀色のものを口に含んだ。
すると、それが口の中で重力に逆らい、自分を上へ、まだ見ぬ世界へ連れ出してくれるのを感じた。
ジョンは興奮して、意識を失った。
数日後、ジョンが釣られてしまったと仲間から聞いたエレナは涙した。
しかしその約半年後、エレナは新しく相手をみつけ、やがてその相手とつがいとなり、二匹は幸せに暮らしましたとさ。
3章
「なかなか面白いじゃないか」
Rは微笑みながらウランに声を掛けた。
「釣り針に恋してしまう魚がいるから、魚釣りという遊びは成立するのかもしれないな」
ウランはうれしそうにしていた。一方、アトムは口を閉じ、じっと考えにふけっているようだった。
しばらくして、アトムが口を開いた。
「お父さん、こういう考えはどうだろう」
そして、次のような話を始めた。
魚たちは、私たちが思う以上に高い知能を持っている。一匹一匹は自由に泳いでいるように見えても、全体として見れば群れをなし、その動きはある種の規律に従っている。
そして彼らは、その知能によって、自分たちの住む湖が人造湖であることを導き出した。もっとも、それを作ったのが何者であるかまでは、察する余地がなかったが。
何者かが意図的に湖を浄化していることも、彼らは知っていた。管理するものがいなくなれば、湖はやがて汚れ、自分たちは住むことができなくなる。
そこで魚たちは考えた。この何者かに湖を管理し続けてもらうには、どうすればいいのか。
彼らが導き出した答えは、ときどき釣りを成功させてやることだった。
彼らはすでに、釣りとはなんたるかを知っていた。釣りを成功させてやれば、何者かはこの湖を管理する価値を見出す。そうして、自分たちの環境を守らせるのだ。
その決定は、魚たちの間で代々伝承されていた。一匹の魚は、大人になるとその話を教えられる。そして自分に子供が生まれると、しばらくの間は頑なにその話を隠し、その子が大人になって初めて真実を伝えるのだった。
その代わり、大人たちは子供たちにこんな話をした。
「釣られていく魚は、どうなると思う? 痛そうだ、かわいそうだって? とんでもない。そりゃあ、その瞬間は痛いのかもしれない。だけど、彼らは神様の手によって楽園へいくんだ。だから、私たち大人は一番勇気のある魚を選んで、その魚に釣られてもらうんだ。なんでかって? そりゃあ、神様に痛みにみちた顔を見せるのは失礼だろう?」
そして大人たちは、一番都合のよい子を選び出し、その子が釣られるように仕向ける。
そのようにして、彼らは何代も何代も、自分たちの社会を守ってきた。
ある日、魚の子シグマに、釣られる役目が与えられた。
家族たちは悲しんだが、社会全体を守るためには仕方のないことだと、諦めたようだった。
一方、シグマは聡い子だった。だから、自分の運命を察した。
大人たちの伝承を、シグマは信じていなかった。
おそらく、自分は生贄になるのだ。社会全体を守るための犠牲として、自分は選ばれたのだ。
シグマは一人でそこまで考えた。
どうしたらいいのだろう。
答えは、なかなか出なかった。
死ぬのは、当然怖かった。悲しかった。それでもシグマには、自分が犠牲になることが家族や仲間のためには最善なのだという、冷静な判断もできていた。
そのことが、かえってシグマを苦しめた。
自分が愚かだったら、あるいはもっと感情的だったら、もう少し楽だったかもしれない。
そうすれば、大人たちの伝承を無批判に受け入れて、勇者となって死ねる。あるいは、悲しみに我を忘れてしまえれば、こんなふうに苦しむ前に死ぬことができるだろう。
幾度もの葛藤の末、シグマは群れから逃げることを決めた。
決定打となったのは、自分の運命を自分で決めたいということだった。
大人たちの嘘に気づいてしまった以上、その嘘に従って死ぬことは、何か自分よりも大きな聖なるものを壊してしまうように、シグマには思えた。
もっとも、それは仲間を裏切って逃げる自分を、正当化したいだけなのかもしれなかった。シグマ自身、その疑いを捨てることはできなかった。
それでも彼には、そう信じるほかなかった。
そして、シグマは群れから逃げた。
元の群れからできるだけ遠いところで、一匹で暮らすことになった。
幸い、食べ物は自分で見つけることができた。それでも数日の間、シグマは寂しさで死にそうになった。しかし、自分で決めた運命なのだから、と耐えることができた。
やがてシグマは、自分が幸福であることに気づいた。
与えられた運命に逆らい、自分で選んだ運命を生きている。そのことが、シグマを満たしていた。
シグマの幸福な生活の終わりは、突然やってきた。
空から水面に、何かが落ちてきた。
シグマは釣り針だと思い、冷静にそれを避けようとした。
しかし、釣り針だと思っていたものが、もうひとつやってきた。
それは鳥だった。
シグマは鳥に捕まり、苦しみの前に意識を失い、死んだ。
シグマが逃げたことを知った群れの仲間たちは、どうしたのだろうか?
大人たちは、シグマが逃げたことを隠した。
「あの子は勇気がなかったんだ。神様にそんな子を見せずにすんでよかった」
そうして新しい子を生贄として選び出し、社会はそれからしばらくの間、幸せに回っていきましたとさ。
4章
「これもなかなか面白い考えだね」
Rはアトムの頭をなでた。認められたのがうれしかったのか、アトムにも笑顔がこぼれた。
「お父さん! 魚!」
ウランの甲高い声に、Rは浮きが揺れていることに気づいた。
釣竿を勢いよく上げると、一匹の子供の魚がかかっていた。
Rはアトムに、釣れた魚を持ってきたバケツに入れるよう命じた。アトムはそのとおりにした。
夏の日は長いとはいえ、あたりはやや暗くなり始めていた。Rは、釣った魚をしばらく飼ってみようと二人に提案し、三人は家路についた。
その途中、アトムとウランはその日の出来事を楽しそうに話していた。
「魚が取れた瞬間の快感といったら!」
ウランはうれしそうに言った。
「これからも、もっと釣れる場所を探していこうよ」
アトムも高らかに宣言した。
そうして二人は、釣った魚の名前をああでもない、こうでもないと、楽しそうに考えていた。
家に帰ると、Rの妻であり、アトムとウランの母親でもあるBが三人を出迎えた。
「お疲れ様」
アトムとウランは、その日の出来事を母親に報告しようとした。けれどBは二人を遮った。
「私も報告があるの。先にさせてくれない?」
普段なら心地よく報告を聞いてくれる母親の珍しい行動に、二人は少し驚いた。
「う、うん」
曖昧に返事をしながら、二人は首を縦に振った。
「実はね、前々から登録していたアレの、採用通知がきたの。アトム、ウラン、やったわね。明日から、二人とも人間のもとで仕えられるのよ。役所の方が、あなたたちが一番適当だっておっしゃるのよ。おめでとう。あなたたちは、私たちロボットみんなが誇りに思える仕事につけるのよ」
母親の話を聞き、ウランは満面の笑みを浮かべた。
「よーし、がんばるぞ!」
アトムも叫んだ。
二人はそれぞれに喜びを爆発させた。
Rは、静かに笑っていた。
そのあと、アトムとウランは魚釣りでの出来事を母親に報告し、四人は休んだ。
終章
次の日、二人はそれぞれ別の人間のもとへ派遣された。
その次の日、ゴミを収集するロボットが、壊れた二つのロボットの破片を回収した。
女の子のロボットには恍惚の顔が、男の子のロボットには誇りにみちた顔があった。
ゴミ収集ロボットはそれを確認すると、一瞬、涙のようなものを浮かべた。それから静かに笑って、こう言った。
「聡い子たち。けれど、こうして社会が回っていく」